ウィリアムモリスの歩んだ軌跡 vol.1
ウィリアム・モリスとは(William Morris)とは ウィリアム・モリス(William Morris 1834年-1896年)は英国の思想家であり、作家・・・
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ウィリアム・モリスとは(William Morris)とは
ウィリアム・モリス(William Morris 1834年-1896年)は英国の思想家であり、作家であり、詩人であり、工芸職人であり、そして何といっても、家具、室内装飾のデザイナーでありました。
彼の作品は近代デザイン史上に大きな影響を与え「モダンデザインの父」と称されています。
繊細で温もりを感じるテキスタイルデザインは、150年以上経った今でも世界中の人々に愛されています。ここでは、ウィリアム・モリスの経歴についてご紹介します。
ウィリアム・モリスの経歴 幼少~青年期
ウィリアム・モリスはロンドン東部にあるエセックス州(Essex)にあるウォルサムストウ(Walthamstow)に、9人兄弟の長男として生まれました。
父親はロンドン金融市場のビルブローカーとして成功を収めたため金銭的にも恵まれ、中流階級の裕福な家庭に育ちました。
モリスは幼いころから読書家でした。
父親の図書室で見つけた数々の本は生涯の愛読書となっています。
その一つに16世紀の植物学者であるジョン・ジェラード(John Gerard 1545年–1611年)が集めた植物の用途の手引書である「The Herball or Generall Hiftorie of Plantes」通称「ジェラートの本草書」があります。
この書物を見ながら、時間を忘れるほど研究した植物の形は、後の花模様のデザインに大きく影響したようです。1848年から1856年までの期間(モリスは14歳から22歳まで)、モリス一家は、ウォーターハウス(Water House)と呼ばれる邸宅で過ごしました。
ウォーターハウスは、1740年代に建てられたジョージアン様式の邸宅です。
モリスの兄弟たちは、庭の堀を利用して、夏はボートや釣り、冬はアイススケートをして楽しんだそうです。
2012年に改修され、ウィリアム・モリスに特化した唯一の公立ギャラリーとして(William Morris Gallery)オープンしました。
そこには、数多くのモリス作品に加え、モリスが製作や実験をする際に着用していたスモック、愛用していたバッグなどが展示されています。ウィリアム・モリスの経歴 大学時代
1852年6月、モリスは聖職者なることを志しオックスフォード大学(University of Oxford)に入学します。
オックスフォード大学で過ごした数年間は、彼の今後の人生に大きく影響しました。①中世への興味
モリスはオックスフォードにある多くの中世の建物に触発されて、中世史と中世建築に強い関心を持つようになります。
オックスフォードは、ロンドンから列車で1時間ほどの街。
12世紀以来の歴史を誇るイギリス最古の学園都市で、現在では約45の大学があります。
中世ヨーロッパの街並みが残るオックスフォードは、映画ハリーポッターのロケ地にもなりました。
まるで中世にタイムスリップしたかのような街並みです。
在学中、モリスは「生まれる時代を間違えた」と言ったほど。
心から中世の芸術を心酔したのですね。②ジョン・ラスキンの影響
モリスは美術評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819年-1900年)の思想に大きな影響を受けます。
ラスキンの著作『ヴェネツィアの石』の中の特に「ゴシックの本質」の章に共感し、ラスキンの思想を土台にし自らの理念を確立していきました。
これは後のアーツ・アンド・クラフツ運動にも受け継がれます。
ラスキンは、モリスだけでなく、ル・コルビュジエ、レフ・トルストイ、マハトマ・ガンジー、夏目漱石など、美術だけにとどまらず様々な分野に影響を与えた人物です。
ちなみに夏目漱石の小説『三四郎』の中で、理科大学の教諭である野々宮宗八が三四郎に「きみ、ラスキンは読みましたか」と、聞く場面があります。
19世紀イギリスでは機械技術の発展とともに産業革命が起こり、経済は資本主義へと移っていきました。
それまで手工業で作られていたモノは、安価で大量に生産できるようになったため手工業は失われていきました。
また、資本主義は投資分を回収するべく作業効率を上げるため、生産者は機械化された工場で細分化された繰り返しの作業を行うようになりました。
細分化された繰り返しの作業は、生産者から、自分の手で製品を作り出すといった喜びを奪い、単純な繰り返し作業は、熟練の技や手仕事の美しさを奪っていきました。
ラスキンは、産業革命がもたらした変化に対して「労働の細分化は人間性の細分化である」「中世の建築物は、たとえ下手でも自由や工夫とひらめきを働かせ、創造を楽しみながら表現している。 これは労働の喜びに不可欠である。中世ではそれが実現されている理想的な時代であった」と警告を発したのです。
もともと中世の古い建物や物語への憧れを持っていたモリスに大きな衝撃を与えたと言われています。③バーン=ジョーンズとロセッティとの出会い
モリスは、オックスフォード大学で生涯の友人で協力者となるエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones 1833-1898)と出会います。
バーン=ジョーンズも聖職者になるためオックスフォード大学に進学しますが、モリスがラスキンの影響を大きく受けたのと同様に、バーン=ジョーンズもラスキンの影響を受けました。そして、モリスとバーン=ジョーンズは、彼らより6歳年上の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828年-1882年)に憧れを抱き、芸術への憧れを強めていきます。
ロセッティは、19世紀の中頃イギリス活躍した芸術家グループ「ラファエル前派」のメンバーでした。
特にバーン=ジョーンズはロセッティを崇め、卒業を間近に控えた大学を退学し、ロセッティから直接指導を受けるようになりました。
モリスとバーン=ジョーンズは、聖職者への道を捨て芸術家として新しい人生を歩んでいくことを決めます。ウィリアム・モリスの経歴 結婚~モリス商会設立へ
1857年、モリスとバーン=ジョーンズは、ロセッティの誘いを受けて、オックスフォード大学学生会館の壁画製作に携わります。
その時に絵画モデルであった、ジェーン・バーデン(Jane Burden 1839年-1914年)と知り合います。
ジェーン・バーデンの父親は馬の世話をする馬丁で身分も低く貧しい環境の中で育ちますが、その美しさはロセッティの属する「ラファエル前派」の理想像そのものであったため、彼らの絵画モデルとして活動していました。
モリスも、彼女を一目見た瞬間、その美貌に魅せられ、身分の格差があり周囲の反対もありましたが、1859年に二人は結婚をしました。モリスは、新婚生活送るための新居として、また家族だけでなく中世の文学と芸術を愛する友人たちと一緒に理想に満ちた生活を送るための仕事場として、イングランドのケント州ベクスリヒースに、友人の建築家フィリップ・スピークマン・ウェッブ(Philip Speakman Webb 1831年-1915年)と共同で設計を行い、『レッドハウス Red house』を建設します。
レッドハウスの内装はモリスが中心となり、友人のバーン=ジョーンズ、ロセッティ、ラファエル前派の影響を受けていた画家のフォード・マドックス・ブラウン、ピーター・ポール・マーシャル、チャールズ・ジョセフ・フォークナーも壁画デザインに加わります。
レッドハウスは赤レンガを使って建設された完璧なまでに中世的精神に満ち溢れた建物で、モリス達の芸術の理想郷として創り上げた建物です。↑上のステンドグラスは、モリスが植物をモチーフにしてデザインしたステンドグラスです。
その模様の中に、フランス語で『Si je puis』と書かれています。
これは、モリスが尊敬していた、中世の画家で、初期フランドル派芸術を創設したヤン・ファン・エイク (Jan van Eyck 1395年-1441年) が、ベルギーにある聖バーフ大聖堂の『ヘントの祭壇画』の作品に、名前と共に書いていた言葉「Als ik Kan」=As I can「われに能う限り」から影響を受けていると言われています。
モリスは、’AS’を’IF’に置き換えて、Si je puis=If I can「もし私にできるならば、、」というモリスの芸術に対する想いを込めています。
モリスは、レッドハウスに携わったメンバー7名と、1861年最初のデザイン・装飾会社 モリス・マーシャル・フォークナー商会を創設しました。
1874年に「モリス商会」と改名します。
モリス商会は1世紀にわたり、もっとも影響力のあるデザイン企業の一つとして存在しました。モリス商会設立以降のウィリアムモリスの経歴、『ウィリアム・モリス展 開催~ ①モリスが歩んだ軌跡 vol.2』は、こちらをご覧ください。
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