【簡単解説】チューダー朝 歴代の王と女王の生涯
室町幕府の後継者争いに端を発した1467年の「応仁の乱」から、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くまでの戦国時代。同時期、イギリスでは、王位継承争いに勝利したチ・・・
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室町幕府の後継者争いに端を発した1467年の「応仁の乱」から、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くまでの戦国時代。
同時期、イギリスでは、王位継承争いに勝利したチューダー家による『チューダー朝』(1485年~1603年)の時代を迎えていました。
『チューダー朝』は、イギリス絶対王政の全盛期であり、小さな国からヨーロッパの大国へと成長した時代でもありました。ここでは、チューダー朝の誕生から終焉まで、歴代の王と女王の生涯について、分かりやすく簡潔にご紹介します。
チューダー朝とは
イギリスでは、1455年から1485年の30年にもわたり、ランカスター家とヨーク家との間で、王位継承をめぐり内乱が続きました。
ランカスター家が赤い薔薇、ヨーク家が白い薔薇をそれぞれの紋章にしていたので、「薔薇戦争 Wars of the Roses」と言われています。30年の激闘の末、ランカスター家の一族であるチューダー家のヘンリー・チューダーが、ヨーク家のリチャード3世を倒し、チューダー朝を開いて、ヘンリー7世(Henry VII)として即位しました。
そして、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York)と結婚することで両家の争いに終止符を打ったのです。チューダー朝の紋章は、ランカスター家の赤いバラとヨーク家の白いバラを合わせた紋章になっています。
バラ戦争より前、1339年~1453年までの約100年という長い期間、イギリス王とフランス王の戦争、あのフランスの国民的ヒロイン”ジャンヌダルク”が活躍した「百年戦争」が起こりました。
「百年戦争」に加えて「バラ戦争」が起こったことで、イギリスの貴族は相打ちとなり、次々と没落していきます。
それにより、チューダー王朝は強大となり、絶対王政を実現したのです。
(※絶対王政・・・君主が絶対的な権力を行使する政治体制のこと。)チューダー王朝は、バラ戦争に勝利して即位したヘンリー7世に始まり、ヘンリー8世、エドワード6世、ジェーン・グレイ、メアリー1世、エリザベス1世と続きます。
ジェーン・グレイに関しては、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位されたため、カウントされないこともありますが、イギリス王室はジェーン・グレイをチューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えています。チューダー朝 ①ヘンリー7世
★チューダー朝 初代イングランド王『ヘンリー7世』
(Henry VII, 1457年- 1509年 / 在位期間:1485年8月22日 – 1509年4月21日)ヘンリー7世は、百年戦争とバラ戦争により没落した貴族が増えたことに乗じて、絶対王政の基盤を作りました。
また、当時、ヨーロッパでは小国であったイングランドを、婚姻外交により強化していきました。
長女マーガレット・テューダー(Margaret Tudor)をスコットランド国王ジェームズ4世の妻にさせ、和平を実現しました。
そのマーガレットとジェームズ4世のひ孫にあたるジェームス6世が、後のイングランドのチューダー朝に替わるステュアート朝を開くジェームズ1世となります。さらに、当時のヨーロッパ最強国であった大国スペインと結ぶために、ヘンリー7世の長男アーサー・テューダー(Arthur Tudor)の妻としてスペイン国王フェルナンド5世の娘キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)を迎えました。
しかし、アーサーが若くして亡くなってしまったため、キャサリン・オブ・アラゴンを次男である後のヘンリー8世の妻としました。
この婚姻がもらたした影響は、次のヘンリー8世でご紹介↓↓チューダー朝 ②ヘンリー8世
★チューダー朝 第2代イングランド王『ヘンリー7世』
(Henry VIII, 1491年-1547年 / 在位期間:1509年4月22日 – 1547年1月28日)ヘンリー7世の後を継いだのは、ヘンリー7世の次男ヘンリー8世です。
ヘンリー8世は、父の政策を引き継ぎ、絶対王政の強化に努めました。
ヘンリー8世は、兄であるアーサーの死去後、兄の妻であったキャサリン・オブ・アラゴンと結婚しますが、キャサリンは妊娠、流産を繰り返します。
やっと出産した王子は1か月後には逝去、その2年後に生まれた王子も、生まれてすぐに亡くなってしまうなど、苦しみは続きます。
1516年、女児であるメアリー(のちのメアリー1世)を出産しましたが、この子が無事に成長した唯一の子でした。
ヘンリー8世は、王位を男子に継承させることを強く望んでいたため、キャサリンとの離婚を決めます。ヘンリー8世は、キャサリンとの離婚と同時に、キャサリンの侍女であったアン・ブーリンとの結婚をすすめました。
ところが、カトリック教会は離婚を禁じていたため、ローマ教皇と対立することになります。
ヘンリー8世は、離婚のためにカトリック教会から決別し、『イギリス国教会』を創設したのです。
さらに、ヘンリー8世は宗教改革の一環として「修道院解散」を断行します。
修道院の解散は、当時、深刻な危機に陥っていた王室財政の解決策としての意味もありました。
修道院の土地を没収し、貴族、ジェントリー(地主階級)、商人に売却し、王室の財政を強化したのです。※「修道院解散」の対象となり、貴族に売却されたものの中に、「ウォバーンアビー(Woburn Abbey)」という邸宅があります。
アフタヌーンティー発祥の地と呼ばれ、イギリスでもトップクラスの邸宅です。
ウォバーンアビーについての記事はこちらのご覧ください。↓↓ヘンリー8世は、キャサリンとの離婚後、アン・ブーリンと結婚をします。
アンは、後にエリザベス1世となる女児を出産しますが、その後、男児を流産してしまいます。
ヘンリー8世は、アンに対して「王妃にしたのに、息子を殺した」と吐き、アンに反逆罪と姦通罪の濡れ衣を着せて牢獄送りに、最後には斬首刑に処したのです。その後も、ジェーン・シーモア、アン・オブ・クレーヴズ、キャサリン・ハワード、キャサリン・パーと結婚、離婚、追放、処刑・・を繰り返します。
ヘンリー8世は、暴君、英国史上最もスキャンダルスな王と言われていますが、高身長のイケメン。
さらにカリスマ性と知性を併せ持ち、とても魅力的な人物だったとも言われています。チューダー朝 ③エドワード6世
★チューダー朝 第3代イングランド王『エドワード6世』
(Edward VI, 1537年-1553年 / 在位期間:1547年1月28日 – 1553年7月6日)ヘンリー8世の死去により後を継いだのは、ヘンリー8世と3番目の王妃 ジェーン・シーモア(Jane Seymour)との間に産まれたエドワード6世です。
エドワード6世は9歳で即位することになったため、母ジェーンの兄であるエドワード・シーモア (初代サマセット公)が、摂政をとなりました。
しかし、エドワード・シーモアは、1549年、ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)により失脚されられます。以後、ジョン・ダドリーが国政を主導しました。
エドワード6世は、父であるヘンリー8世の意思を継ぎ、イギリス国教会の礼拝式の様式を定めた「祈祷書」を制定するなど宗教改革をいっそう推進しました。しかし、エドワード6世は結核にかかり、16歳という若さで病死してしました。
チューダー朝 ④ジェーン・グレイ
★チューダー朝 第4代イングランド女王『エドワード6世』
(Jane Grey, 1537年-1554年 / 在位期間:1553年7月10日 – 1553年7月19日)エドワード6世の没後、王位継承順位は4位と玉座からは遠くにいたジェーン・グレイが女王に即位しました。
ジェーン・グレイは、ヘンリー7世の曾孫にあたります。
王位継承順位の低いジェーン・グレイが女王になったのには、王位継承順位2位のメアリーが熱烈なカトリック信者であったため、王位がカトリック派になることを防ぐためでした。
当然のことながら、ジェーン・グレイの即位を快く思わないカトリック派から激しい反発を招きます。
加えて、本来味方に付くはずのイギリス国教会の貴族からも反発され、ジェーン・グレイを即位させる計画をしたジョン・ダドリーは処刑となります。そして、ジェーン・グレイもわずか9日間で廃位、さらには反逆罪で死刑に処されることとなりました。
ジェーン・グレイは、自身が女王になりたいという希望も全くなく、ただ権力争いに巻き込まれただけであったことから「悲劇の9日間の女王」と言われています。チューダー朝 ⑤メアリー1世
★チューダー朝 第5代イングランド女王『メアリー1世』
(Mary I of England, 1516年-1558年 / 在位期間:1553年7月19日 – 1558年11月17日)ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの唯一の子である、メアリー1世。
ジェーン・グレイを廃位させ、即位しました。
メアリー1世は、熱心なカトリックの信者であったため、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、ローマ教皇を中心とするカトリック教会を復活させようとしました。
そのために、イギリス国教会の信者を迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑するなど、強行に及びました。メアリー1世は、スペインの皇太子フェリペ(後のスペイン国王フェリペ2世)と結婚しますが、カトリックの総本山であるスペインがイングランドを奪うのでは、と反感を買うようになります。
さらにフェリペは、母国スペインとフランスの戦争にイングランドも参加するようメアリーに促し、メアリーもそれに従い参加します。しかし、この戦争でイングランドは大陸に唯一残っていた領土カレーを失ってしまいました。(カレー包囲戦)
失策に終わったメアリーは体調も崩し、敵対していた異母妹エリザベスを王位継承者に指名して、死去しました。
メアリー1世のとった残酷な行為は「ブラッディ・メアリー・血まみれのメアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれ、ウォッカをベースにしトマトジュースとレモンジュースを加えた赤い色のカクテル「ブラッディ・メアリー」が誕生するほどです。チューダー朝 ⑥エリザベス1世
★チューダー朝 第6代イングランド女王『エリザベス1世』
(Elizabeth I, 1533年-1607年 / 在位期間:1588年11月17日 – 1603年3月24日)ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの子であるエリザベス1世は、25歳で女王に即位します。
エリザベス1世は、エドワード6世と一緒に、幼少期から養育係や家庭教師により高度な教育を受けてきました。
特に外国語を特技とし、英語、ラテン語、フランス語、イタリア語など身につけていたそうです。エリザベス1世は、まずメアリー1世がとった親スペイン政策に反発する国民の心をつかむため、宗教問題の解決を進めます。
1559年、父であるヘンリー8世が発令した「首長法(国王至上法)」を再発令します。
首長法とは、イギリス国王をイギリス国教会の最高の首長とする法令です。
さらに、礼拝統一法を発布してイギリス国教会を確立させ、カトリック教を抑圧しました。エリザベス1世の最大の功績は、1588年にスペインの無敵艦隊をうち破ったこと(アマルダの海戦)です。
当時、スペインは優れた造船技術、海上技術がある海軍をもっており、ヨーロッパだけでなくアメリカ大陸、フィリピンなども領土とし、支配を拡大していました。
それゆえ、自転する地球で、スペインの領土のどこかが常に太陽に照らされている状態にあったことから、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたほどでした。スペインがイギリスを攻撃するきっかけとなったのは、カトリック派であるスコットランドの女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart:1542年-1587年)がエリザベス女王の暗殺を企てたとし逮捕され、ついにはエリザベス女王により処刑されます。
このことが引き金となり、スペインの攻撃が始まったのです。
メアリー・スチュアートは、エリザベス1世の従姪(じゅうてつ:いとこの子供)にあたります。
エリザベス女王は、スペインと争うことを予測していたため、密かに海軍の強化にあたっていました。
スペインの船が大きいことを逆手にとり、イギリスは小さな船をたくさん用意しました。
さらにイギリス軍は、小さな船に射程の長い軽砲を備え、スペインの船を巧みにかわしながら、次々と沈没させていったのです。イギリスの勝利を知ったローマ教皇シクストゥス5世の言葉。
「見るがいい。たんなる女が、あのちっぽけな島の女主人にすぎない身で、すべての国々から恐れられている」
エリザベス1世のアマルダの海戦の勝利は、英国史における最も偉大な勝利者として知られることになりました。エリザベス1世は経済政策として、1600年にトマス・スミスなどのロンドンの貿易商に『東インド会社』設立の勅命を行いました。
これにより、アジア貿易の独占の特許を与えられた東インド会社は、香辛料、紅茶、インド産の絹、綿、キャラコなどをヨーロッパへ輸出することで、大きな利益をあげました。またエリザベス1世は、文化・芸術の興隆にも力を注ぎました。
シェークスピア(William Shakespeare:1564年-1616年)に代表されるイギリス・ルネサンスが開花した時期で、イギリスの演劇・文学が隆盛しました。エリザベス1世は恋もしましたが「私はイングランド(英国)と結婚している」と国のために生涯独身を貫き、政治、経済、芸術的な面でイギリスを発展させ「黄金時代」を築き上げました。
1603年。最期に女王が後継者に指名したのは、自ら処刑したメアリー・スチュアートの子供でスコットランド王のジェームズでした。
これによりチューダー朝は終焉をむかえました。エリザベス1世を題材にした1998年の映画『エリザベス』(Elizabeth)
史実と異なる部分もあるようですが、エリザベス1世の壮絶な半生が描かれています。
舞台も衣装も美しく、何よりケイト・ブランシェットの圧巻の演技は必見です♪【徹底解説】チューダー様式 建築物と家具の特徴
チューダー朝の時代に存在したデザインは、『チューダー様式』と呼ばれ、それまでのゴシック様式、イタリアのルネサンス様式の影響を受け、イギリス独自のスタイルで発展させていきました。
『チューダー様式』の建築物と家具のデザインについての記事はこちらをご覧ください。↓↓チューダー様式の英国アンティーク家具
ケントストアでは、チューダー様式の英国アンティーク家具も取り扱っています。
チューダーローズが施されたカクテルキャビネットやリネンフォールドとよばれる装飾デザインが施された家具など、ぜひご覧くださいませ。イギリスの歴史を紐解く食の旅「チューダー朝ブレッド」
英国で人気を集め、TVや執筆でも活躍するパティシエ・ブーランジェ/ペストリー&ベイカーシェフのダン・レパード氏。
2023年6月11日、英国の食の文化史の研究家でもあるダン・レパード氏による『チューダー朝のパン』についてのワークショップ&セミナーが開催されました。
ハンプトンコート宮殿で食べられていたマンチェットをはじめ、当時のパンを再現。
イギリスでレストランなどのコンサルティングを請け負うダン氏がセレクトした小麦などの材料を使って、レストランやカフェ、ベーカリーを経営されているプロの方も、パンのバリエーションを増やすために非常に役立つ技術をご紹介してくださいました。イギリスの歴史を紐解く食の旅「チューダー朝ブレッド」のセミナーレポートはこちらのブログ記事をご覧ください。
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